神戸大学で開かれる記号学会で発表します(5月9日)。
指紋の偽造について話す予定です。
要旨は以下になります。
プログラムの詳細については以下のサイトをご参照ください。
http://www.jassweb.jp/2010/04/post_16.html


同一性の判定――身元確認における指紋と写真
橋本一径(愛知工科大学


 私たちがある人物を見て、それが誰であるのかを特定できるのは、その人物が私たちの記憶の中にある誰かの姿と「似ている」からであろう。このような「類似」は、私たちの日常生活はもちろんのこと、警察や行政などによる制度的な身元確認の現場においても、長らく唯一の手掛かりであり続けてきた。このため例えば18世紀ヨーロッパのパスポートには、髪や目の色、身長などの身体的特徴を簡潔な言葉で記した人相書きが記載され、あるいは19世紀のパリのモルグ(死体公示所)では、行方不明の家族や友人に「似た」者を探し求める人々のために、身元不明の遺体が公開され、多くの観客を集めていた。
 このような「類似」による身元確認は、いわゆる「他人のそら似」による誤認もつきものであったために、客観的な身元確認を目指す犯罪科学者や法医学者らにとっては、常に頭痛の種でもあった。こうした状況は、19世紀末にパリ警察で実用化されたアルフォンス・ベルティヨンの人体測定法を経て、指紋法が導入されるに至って一変する。指紋によって身元が確認されるのは、二つの指紋が「似ている」からではなく、それらがまったく「同じ」であるからだ。身元確認において初めて、「類似」ではなく「同一」が問題とされるようになったのである。
 写真というメディアは、このような身元確認における「類似」から「同一」への変遷の中に位置づけようとしたとき、極めて特異な性質を持つものであることがわかる。写真は、19世紀半ばに発明された当初から警察の手配写真などへの応用が試みられ、今日においてもあらゆる身分証明書に貼られていることからも明らかなように、身元確認と深い結びつきを持つものである。では私たちが写真を見て、そこに自分や知人の姿を認めるのは、それが「似ている」からなのか、あるいは「同じ」だからなのだろうか。写真は指紋とは異なり、常に寸分も違わぬ「同じ」イメージを写し出すことができるわけではない。かといって私たちは、身元写真や集合写真の中に自分の姿を見出すとき、それが「自分にそっくり」だと思っているわけでもないだろう。本発表は、身元確認の歴史を振り返りながら、このような写真による身元確認の特異性を浮かび上がらせ、写真というメディアの本質を明らかにするための手掛かりを得ることを目指す。